菅平紀行(四)・追憶
ラグビーの実況を始めて20年経った。 1983年にリーグ戦一部に昇格した関東学院大学は、
強豪校の壁に跳ね返され2年連続8位。
私は、専修大、法政大、日本大、東洋大、中央大、拓殖大、大東大などを担当。
当時、関東学院を実況した記憶はない。
1987年、関東学院は一部昇格5年目で4勝4敗の4位。
初めて交流試合に出場。 大学選手権出場権を賭けて筑波大と対戦。
ワントライに抑えられて敗れたが、勝てば大学選手権という試合を経験してチームは変貌を始めた。
秩父宮の改修工事のため、幸運にも大学選手権の準決勝以上で
なければ経験出来ない国立競技場の芝を踏みしめた。

翌1988年8月、チームの更なる飛躍を願い関東学院は初の海外合宿を敢行した。
ニュージーランドとオーストラリア。 ラグビーの本場を訪れ監督も選手達も決意を新たにした。
海外合宿で多くの知己を得たことが、後の大きな財産となった。

この年の9月、金沢八景で春口監督にご馳走になった。 武蔵の国、六浦郷金沢村。 金沢八景は鎌倉時代は勿論、江戸時代の町民にとっての憩いの場だった。 平潟湾の潮風を心地よく感じながら飲んだ酒は格別。ラグビーのすばらしさと春口監督の情熱に感銘した。

この年の10月16日(日)、初めて関東学院大学を実況した。
相手は日本大学。 場所は江戸川だった。
このシーズン、関東学院の放送は4試合。 「専修大対関東学院大」 が三ツ沢、「関東学院大対東海大」、「関東学院大対法政大」 は平塚。 実況後、東海道線で解説の村田義弘さんとビールを飲みながら帰った。
この1988年、関東学院は河西和行主将。 リーグ戦一部昇格6年目で初めて5勝3敗と勝ち越したが、交流試合では明治に敗れ、大学選手権出場はならなかった。
しかし、このころから少しずつ学内にもラグビーファンが増え始めた。

翌1989年はリーグ戦5勝2敗1分け。 前年に初めて勝った法政大と引き分けたが、専修大と大東大の壁は厚かった。 この頃、専修大のSH村田亙のプレーにほれ込んだ。 最も印象に残るスクラムハーフだった。関東学院は3年連続で交流試合に出場。 早大に30点差で敗れ、又しても初の大学選手権はお預けとなった。大差で関東学院を破って大学選手権に出場した早大は2年振りの大学日本一。 この年のキャプテン清宮克幸が13年後に、監督として優勝するまで、早大が大学の王座から遠ざかるとは、とても想像出来なかった。
交流試合で早大と初対戦して破れた翌年、1990年。
関東学院は大東大の壁は敗れなかったものの、7勝1敗で初めてリーグ戦を制した。 交流試合で帝京大を破り大学選手権初出場。
以来、14年連続出場。 7年連続決勝進出。 優勝5回。 大学選手権で早大に4勝3敗。 明治に5連勝。 同志社と法政に3連勝。 大学選手権の舞台に登場した関東学院大学は、瞬く間に大学ラグビー界の頂点に立った。


