アナウンサーズマガジン

画面では決して見ることの出来ないアナの表情が満載!番組への意気込みや裏話も アナ本人の文章で紹介。

森田浩康アナのblog

『テレビ神奈川の視聴者の皆さま、長い間ありがとうございました』

6月3日が、森田浩康の最後のスポーツ実況になりました。 3年以上、ご無沙汰したアナウンサーズマガジンに、久々に書かせて頂きます。 お別れに、アナウンサーとして43年間の想い出を辿りました。


誕生月の6月で定年を迎えてから丸5年。 6月19日で65歳。局アナとして退職します。
この年齢までよく実況できたと胸を撫で下ろしてします。
テレビ神奈川の局アナとして任期を全うするのは、遅ればせながら、私が第一号となりました。

1974年、福岡県のRKB毎日放送に入社。
「稲尾和久氏」とのコンビでデビューしたプロ野球実況は、全国的に雨のため、全国ネット。
「森田が一人で喋ってしまって、俺が入る余地がなかった」と、稲尾さんは苦笑い。
「神様、仏さま、稲尾様」との放送で、唯々、舞い上がって放送を終了しました。

「2006年2月 稲尾和久さんと共に沖縄キャンプ取材」

RKB毎日のライバル局、九州朝日放送の解説者「中西 太」さんには、むしろテレビ神奈川に
移籍してからご指導を賜りました。携帯メールで打撃について質問すると、丁寧な答えが返って
来ました。ときには、「そのあたりは、我々の感覚論なので、君らには伝えきれない。申し訳ない」
という返事もありました。

「2016年 3月 中西太さんと神宮球場にて」

太平洋クラブライオンズの坂井保之社長と、取材に関わる件で口論となったことがあります。
坂井さんは42歳の新進気鋭の球団経営者。私は24歳。RKB毎日の駆け出しのアナウンサー。
「そんなことは放送せんでいい!」・・・ と坂井社長。
「放送するしないは、こちらで決めます!」・・・ と私。
・・・結局、スポーツ課長からの業務命令で、私がライオンズ球団に謝罪に出向きました。

以来、RKB社内の「喧嘩っ早い博多っ子」から、「江戸っ子は面白かね~」と、身に余る厚遇。
私は江戸っ子ではなかったのですが、否定しませんでした。
坂井保之さんは、西武ライオンズの初代社長として、西武の黄金時代の経営を支えました。

「2016年4月22日、82歳になった坂井保之さんとの再会」

私は1979年の7月、テレビ神奈川に移籍。初出社の日から、高校野球の取材予定を立てました。
翌日から取材。会社の人たちの顔を覚える暇もなく、横浜での最初の夏が終わりました。
思えば、あの頃はテレビ神奈川のスポーツ中継・黄金時代。担当した番組を列挙してみましょう。

東京六大学野球、東都大学野球、神奈川大学野球、高校野球神奈川大会、全国中学校軟式野球、
草野球日本一、商店街対抗野球、都市対抗野球、横浜の大洋戦、川崎のロッテ戦、神宮のヤクルト戦、川崎競馬、花月園競輪、県民ボーリング大会、家庭婦人バレーボール大会、
バレーボール日本リーグ、Jリーグ(マリノス、フリューゲルス、ヴェルディ、ベルマーレ)、
サッカーダイジェスト、高校ラグビー、大学ラグビー、社会人ラグビー東日本リーグ、
全国社会人ラグビー、ラグビー日本選手権、ラグビートップリーグ、ラグビー国際試合など。
・・・ そして、おしゃべりトマト。

プロ野球は横浜の大洋戦は勿論、川崎球場のロッテ戦、神宮球場のヤクルト戦も放送しました。
1週間に7日連続で横浜スタジアムからナイターを放送したこともありました。
神宮球場からのヤクルト対阪神は、神戸のサンテレビにも送って放送していました。

「昭和59年8月6日(火)~12日(日) TVKテレビ番組表 ・ 7日間連続ナイター中継」

「昭和61年4月9日(水)~12日(土) サンテレビ番組表 ・ 神宮からヤクルト対阪神をネット」


テレビ神奈川に移籍して、7月に高校野球、8月にプロ野球、9月からは東京六大学野球を毎週実況。
早大の監督は「宮崎康之」さん。宮崎さんは小倉高校野球部で昭和22、23年に夏の甲子園二連覇。
福岡のRKB毎日出身というご縁で、目をかけて頂きました。
この年の早大の主将が、後に阪神の中心選手となった「岡田彰布」でした。

当時、六大学野球はテレビ神奈川のスポーツ中継の目玉商品。法政大学では、後輩に細やかな気配りをする2年の「木戸」と、自由奔放に喋る1年の「小早川」が印象に強く残っています。
1年の春、開幕四番の小早川がバントの練習をしていると、鴨田監督は「お前にバントは要らん!」

「2006年の沖縄キャンプで、木戸と小早川の貴重な2ショット」

現在、木戸克彦さんは阪神タイガースのプロスカウト部長として戦力補強に奔走。
小早川毅彦さんは、NHK の解説者、サンスポの評論家として活躍中。


今ではプロ野球の試合前の練習中、ケージの近くで監督に話を聞くアナウンサーは稀です。
取材は「1対1」が基本。多くの人数で一人を囲む取材では得られない醍醐味があります。

取材は5分か10分の勝負。最初の一言か二言の質問で喋って貰えなかったら、尻尾を巻いて退散。
かなりの威圧感に何度も圧倒されました。あのドキドキする緊張感が、快感でもありました。

星野さんは「きのう、ちょっと鎌倉に行ってきたよ。若いころ、よく女房と行ったよ」・・・と、
私的な会話から入ってきたことがありました。奥様を亡くされた直後のことでした。


「2003年の沖縄・宜野座球場。練習前の早朝にベンチ前で」


同い年の「山下大輔」さんが、横浜大洋の監督を務めたときは、感慨もひとしおでした。
慶應大学の野球部は、六大学でもスマートな選手が多いチーム。でも、監督は一味違いました。

福島監督から『朝、テニスをしたくらいで実況が出来ないようでは情けないぞ!』と煽られ、
昼からの「大学野球実況」の当日、朝の5時からテニスの特訓。日吉から神宮球場に直行して、
実況しました。

山下大輔さんは、川崎にあった独身寮にベンツで乗り付け、「さすが慶應ボーイは違う!」
大洋の先輩選手たちは、今までとはちょっと違う新人に、驚きの声を上げました。

「大洋の貴公子・山下大輔」      「2003年 山下監督と宜野湾球場にて」    


「秋山登」さん、「鈴木隆」さん、「森中千香良」さん、「長田幸雄」さん、「辻 恭彦」さん、
「松原誠」さん、

テレビ神奈川の解説者の皆さんに野球の神髄を教えて頂いたことは、生涯忘れることは出来ません。

秋山登さんには、「この雨は明日まで続く。今夜はトコトン飲むぞ!」と言われ朝までお付き合い。
激しい雨音、安どの眠りに落ちること数時間、小鳥のさえずりと眩しい日差し。
「しまった!資料もやってない。頭もボーとして睡眠不足。今日は実況だ。かなりやばい!」

鈴木隆さんとは放送後は必ず「反省会」と称して飲みに行きました。
「お前は資料に頼りすぎる。もっと、野球を見ろ!」と言われました。
ある日、鈴木さんは放送中に、私の資料を鷲掴み。デスクの下にしまってしまいました。

「えっ、何すんですか!」
「野球だけ見て喋れよ。資料なんか要らん!」
資料なしの実況で、違う世界が見えました。それは私の実況の転機になりました。


「2003年2月 沖縄キャンプ取材 鈴木隆さん、辻恭彦さん」

私の青春時代のプロ野球界のヒーローは、セリーグ三羽烏と言われた「平松、堀内、江夏」の3人。
この3人と直接話が出来るなんて、まるで夢物語でした。
堀内さんはRKB時代に小倉球場で、平松さんは横浜スタジアムで、初めて取材させて頂きました。
秋山、平松、斉藤、遠藤、大洋球団の歴史に残る名投手と一緒に、中継を担当させて頂きました。

「平松政次さんと放送」

「遠藤一彦さんと試合前のベンチで」


プロ野球より、一足早く、ラグビー中継を卒業。 1月2日の準決勝が最後の実況になりました。
大学ラグビーは帝京大学の一強時代。大学ラグビー史上、最強のチームです。
岩出監督の粋な計らいで、試合出場メンバーと前日に撮影して頂いた写真です。


「7連覇を達成した帝京大学の試合出場メンバー23名 と記念写真」


2015年12月26日、ラグビートップリーグの最後の実況。
この日の最終戦で敗れたサントリーは、プレーオフへの出場権を逸しました。
試合終了後、彼らはメンバー23名のサインが入ったユニフォームをプレゼントしてくれました。
サントリーのサプライズに感動でした。

「田原耕太郎・広報担当からの呼び出し電話。 そこには真壁主将が待っていた」

2016年2月20日、「関東大学ラグビー連盟」の懇親会に招待して頂きました。
連盟理事長で大東文化大学・特別顧問の「鏡 保幸」 さんから花束を頂きました。
私が退職すると知った大学ラグビー関係者の温かい心配りに、胸を打たれました。

「鏡保幸理事長から花束を頂く」

鏡さんは大東文化大の監督として、3度の大学日本一に輝きました。低迷する大学を心配。
特別顧問としてバックアップが始まると、2015年度は大学選手権の準決勝に進出しました。
この試合が私の最後のラグビー実況になりました。

「大学ラグビー界の仲間たち」


ラグビーに関する様々なことを、菅平合宿で学びました。
早大セミナーハウスのグラウンドに、日比野監督を訪ねた時の写真です。
オートフォーカスの初代イオスを購入して撮影。スライド写真で合宿リポートを放送しました。
日比野さんには、その後、解説者としてテレビ神奈川の放送に、ご協力頂きました。


「初めての菅平合宿取材で早大・日比野監督に聞く」

「森田さんが引退してからも、僕は解説出来ますよね」
「勿論ですよ。上田さんは日本一の解説者ですから・・・」
上田昭夫さんほど、プレーの隅々まで気配りの効いた解説が出来る人は貴重でした。

2015年1月10日の決勝戦が、上田さんとの最後の仕事になってしまいました。
共にラグビー中継に情熱を傾けた、解説の「上田昭夫」と、プロデューサーの「為近康」
私より、一つ年下の友2人が、先に逝ってしまいました。


「2005年1月9日、大学ラグビー選手権 決勝の放送席 解説 上田昭夫さん」


ラグビー界には私を育てて下さった恩人が居ます。「斎藤直樹」さんです。
八月の菅平合宿では、毎年のようにルールとレフリングの指導を受けました。
網走合宿では、日本協会トップレフリー研修会に特別に参加させて頂きました。
夜の個別指導にも同席が叶いました。トップレフリーの育成過程で、私も学ばせて頂きました。
斎藤さんは、ワールドカップで笛を吹いた、唯一人の日本人レフリーです。



「2005年8月12日 日本協会 トップレフリー研修会 網走市にて」


「ラグビーマガジン」が取材に来てくれました。かつて記事を執筆したことは2度ありましたが、
取材を受けるのは初めて。テレビ神奈川のラグビー中継が果たしてきた役割の大きさを感じました。

「ラグビーマガジン 2016年1月25日発売号 巻末インタビュー」


11年間、アナウンス部長を務めさせて頂きました。
3人しか居なかった女性アナウンサーを、6人に倍増できたことが大きな収穫でした。

テレビ神奈川に移籍早々から、56歳までの四半世紀、アナウンス職場の歓送迎会の幹事を
一手に引き受けてきました。中でも最大のイベントは、2005年3月27日。
1泊2日の「アナウンス部会 兼 新人歓迎会 兼 あっぱれ神奈川大行進へのアナウンサー総出演」

企画立案、行事進行役、用具係り、会計役、すべて独断で仕切る自信過剰ぶり。
おまけに、カメラマン役まで私が務めました。

「2005年3月27日、部会を終えたあとのリクレーションテニス 足柄いこいの村」


「相賀真理子、大原裕美、佐藤亜樹、尾辻 舞、三﨑幸恵 中村理恵の歓迎会」


「部会、テニス、温泉、新人歓迎会、カラオケ、あっぱれ神奈川に総出演・・・お疲れ様でした」


私にとっては、懐かしい写真です。10年ひと昔、テレビ局とアナウンサー達の良き時代でした。
この10年、新聞と放送を取り巻く環境は大きく変わりしました。

新聞や放送が、これからも情報伝達の主役であり続けることが出来るのか。
今、日本という国は、どんな方向に向かって走っているのか。

少なくとも、私は良い時代にテレビの世界で生きて来られたと、感謝しています。
長い間、私のスポーツ実況を聴いて下さって、ありがとうございました。

アナウンサー43年目の2016年6月、ついにマイクを置くときがきました。
お手紙やお葉書を頂いたり、競技場や練習グラウンドでお声を掛けて頂いたり、
視聴者の皆様の励ましに勇気を頂いて、アナウンサーを続けてきました。

1月2日の最後のラグビー実況は、ビデオでは録画したものの、
記念の写真などは撮影していませんでした。
視聴者の方が、テレビの映像を写真にして、葉書に印刷して送って下さいました。
素敵なプレセントに感激。自宅のデスクに飾ってあります。

6月3日のナイター実況を最後に、もうテレビでお目にかかることは出来ませんが、
視聴者の皆さまに支えられてきたアナウンサー人生は、幸せだったと満足しております。

これまでの経験を、また別のかたちで、皆様にお返しできたらと考えています。
しばらくは、神奈川大学の講師として、若者のお役に立てるよう勉強を続けます。
テレビの前の皆さま、長い間ありがとうございました ・・・・・ 。


「静岡市の田中伸明さんから頂いた、最後のラグビー実況の映像写真です」